「ああ、また夜勤明けの朝が来た…」。窓の外はすでに明るくなり始めているのに、私の心は鉛のように重かった。深夜の緊急入院、急変対応、そして患者さんからの不満。ナースコールが鳴り止まない一晩を終え、ようやくベッドに倒れ込む頃には、体だけでなく心まで擦り切れていた。友人たちは週末の予定を楽しそうに話すけれど、私のカレンダーは不規則なシフトで埋め尽くされ、彼らとの時間なんて夢のまた夢。「このままじゃ、私、壊れてしまう…」。心の奥底で、SOSの警鐘が鳴り響いていた。
そんな時、ふと目にした転職サイトの広告。「夜勤なし、土日祝休み、ワークライフバランス充実」。一般企業の求人情報が、まるで砂漠の中のオアシスのように眩しく見えた。「これだ。私が求めていたのは、この『普通の生活』なんだ」。営業ノルマ? 一般企業のキツさ? そんなものは、命を預かる看護師のプレッシャーに比べれば、きっと大したことはないはずだ。そう信じて、私は白衣を脱ぎ、新たな世界へと飛び込む決意をした。
私の名前はアヤ。30代前半、総合病院で7年間勤務したベテラン看護師だった。転職先は、医療機器メーカーの営業サポート。看護師経験が活かせるという触れ込みに、胸を躍らせていた。しかし、入社してすぐに、私は想像もしなかった壁にぶち当たった。
「アヤさん、この資料、A社に送るやつだよね? 納期は今日中だけど、まだ手をつけてないの?」
隣の席の先輩社員の声が、私の耳に鋭く突き刺さる。資料作成、データ入力、顧客対応、そして営業担当からの急な依頼。患者さんの状態を観察し、優先順位をつけて動くことには慣れていたけれど、ここでは「数字」と「スピード」が全てだった。一つ一つの業務が細分化され、全体像が見えにくい。そして何より、私が最も苦痛に感じたのは、目に見える「成果」が求められるプレッシャーだった。
「なんで私はこんな簡単なこともできないんだろう…? 患者さんの命を救っていた頃の私は、もっとできたはずなのに…」
夜遅く、誰もいないオフィスで一人、ディスプレイの光を浴びながら、私は何度も心の中で呟いた。看護師時代は、患者さんの「ありがとう」が直接的なやりがいだった。でも、ここではどれだけ正確に資料を作っても、どれだけ迅速にメールを返しても、それが直接的に「売上」に繋がるわけではない。貢献している実感が見えづらく、漠然とした焦燥感に苛まれた。
さらに、給与の現実も私を打ちのめした。夜勤手当や残業代がなくなった分、月給は手取りで10万円近く減った。最初は「ワークライフバランスのためなら…」と納得していたはずなのに、いざ生活費と向き合うと、「なぜ私だけがこんなに苦しい思いを…」と、後悔の念が胸を締め付けた。週末、友人とランチに行っても、以前のように気兼ねなく注文することさえ躊躇してしまう自分がいた。このままでは、何のために転職したのか、分からなくなってしまいそうだった。
「カレンダー通りの休み」は手に入れた。確かに、土日祝日は休める。でも、心は全く休まらなかった。営業の目標達成に貢献できていないのではないかという不安、新しい人間関係に馴染めない孤独感、そして「看護師に戻るべきだったのか」という自問自答が、私の頭の中を駆け巡る。
一般企業への転職は、決して「逃げ」ではない。しかし、その「湖」には、激流の川とは異なる、見えない底流や突然の嵐が潜んでいることを、私は身をもって知ったのだ。表面的なメリットだけでなく、その奥に隠された「リアル」を知ること。そして、自分自身の「本当の価値」と「何を大切にしたいのか」を深く見つめ直すこと。それが、後悔しないキャリアチェンジへの第一歩なのだと、今ならはっきりとわかる。

 
			 
			 
			 
			 
			 
			 
			