「ねぇ、ちょっとデザインお願いしていい?友達だからタダでいいよね?」
その瞬間、私の心臓が嫌な音を立てた。
スマホの画面に表示された友人からのメッセージを、何度も読み返す。既読がついている。返事をしなければならない。でも、指が動かない。
「また、か……」
心の中で、小さくつぶやいた。
これで何度目だろう。独立してフリーランスのグラフィックデザイナーになってから、この手のメッセージが週に2〜3件は届くようになった。最初は「頼られてる」と嬉しかった。でも今は、通知音を聞くたびに胃が重くなる。
「友達だから」「知り合いだから」「昔お世話になったから」
その言葉が、私の時間を、スキルを、そして自尊心を、少しずつ削り取っていく。
私が「タダ働き」を断れなかった理由
あの日、私は3日間徹夜で友人の結婚式の招待状デザインを仕上げた。報酬はゼロ。いや、正確には「ありがとう」という言葉と、Instagramの投稿で「才能ある友達に作ってもらった♡」というタグ付けだけ。
「プロに頼んだら10万円かかるって言われたんだけど、あなたならタダでやってくれるよね?友達なんだし」
断れなかった。
断ったら、冷たい人間だと思われるかもしれない。
断ったら、この友情が壊れるかもしれない。
断ったら、「お高く止まって」と陰口を叩かれるかもしれない。
そして何より——
「プロとして対価を要求できるほどの価値が、私にあるのだろうか?」
その不安が、私の口を閉ざした。
結局、私は引き受けた。3日間、睡眠時間を削り、本来受けるはずだった有償案件を後回しにして、完璧な招待状を作り上げた。友人は大喜びだった。100以上の「いいね」がついた投稿を見ながら、私は空っぽの通帳を眺めていた。
そして、その投稿を見た別の友人から、またメッセージが届いた。
「私の会社のチラシも、タダで作ってくれない?」

「5分で描ける」という誤解が生む搾取
それから数ヶ月、私はタダ働きの依頼を断れないまま、毎日を過ごした。
ある友人は言った。
「5分で描けるんでしょ?だったらタダでいいじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、何かが音を立てて崩れた。
5分?
確かに、ペンを走らせている時間は5分かもしれない。
でも——
そこに至るまでの10年間の修練は?
何百万円もかけたデザインスクールの学費は?
毎月支払っているAdobeの年間契約7万円は?
ペンタブレット、高性能PC、カラーマネジメントモニターの投資は?
アイデアを生み出すために見た何千ものデザイン作品は?
「5分」の背後にある、数千時間の「見えない資本」を、誰も見ようとしない。
その夜、私はコンビニでバイトしている高校生の時給を調べた。
時給1,200円。
先月こなした無償案件7件の合計作業時間は、約80時間だった。
もしこれがコンビニバイトだったら——96,000円。
でも、私が受け取ったのは「ありがとう」という言葉だけ。
プロとして10年以上磨いてきたスキルが、コンビニバイト以下の価値しかないのか?
通帳の残高は3万円を切っていた。来月の家賃が払えない。
気づけば、パソコンの前で泣いていた。
友人関係が壊れた瞬間
限界が来たのは、大学時代の親友からの依頼だった。
「ウェディングムービー作って!もちろんタダでいいよね、親友なんだから♡」
私は、初めて断った。
「ごめん、今は有償案件しか受けられないんだ。でも友達価格で、通常の半額でどうかな?」
スマホの画面に「既読」がついた。返事は来なかった。
3日後、共通の友人から聞いた。
「あの子、あなたのこと『お金にがめつくなった』って言ってたよ。昔はあんなじゃなかったのにって」
胸が張り裂けそうだった。
私は、間違っていたのだろうか?
自分の労働に対価を求めることは、そんなに悪いことなのだろうか?
その夜、私はベッドで丸くなって、声を殺して泣いた。
友情を失った。
でも、対価を求めなければ、私自身が壊れていた。
それでも、心のどこかで自問し続けていた。
本当に、私が悪かったのだろうか?
「タダでやって」の正体——それは心理的搾取だった
転機は、あるクリエイターコミュニティでの出会いだった。
同じような悩みを抱えた先輩デザイナーが、こう言った。
「それ、やりがい搾取って知ってる?」
やりがい搾取——。
初めて聞く言葉だった。でも、説明を聞いて全てが腑に落ちた。
「友情」という名の「やりがい」を報酬の代わりにして、労働力を搾り取る構造。
ブラック企業が従業員に「成長できる」「夢を叶えられる」と言って低賃金で働かせるのと、全く同じ手口だった。
友人たちは、こう言っていた。
「私のために作ってくれるのが嬉しいでしょう?」
「好きなことを仕事にしてるんだから、苦じゃないよね?」
「ポートフォリオになるじゃん」
「活躍の場を与えてるんだよ?」
これらは全て、対価を払わないための言い訳だった。
先輩は続けた。
「それに、フレネミーっていう言葉も知っておいたほうがいい」
フレネミー——Friend(友達)とEnemy(敵)を合わせた造語。
友人のふりをして、実は相手を利用したり攻撃したりする人のこと。
「プロならこれくらいすぐできるでしょ?」と能力を試すような言い方。
「〇〇さんはもっと安くやってくれた」と他の人と比較して値切る。
「簡単な修正だから」と言って着手させ、後から膨大な作業を追加する。
断ったら「友達なのに冷たい」「金に汚い」と悪評を流す。
これは友情ではない。これは搾取だ。
その言葉を聞いて、何かが吹っ切れた。
2024年、法律が変わった——私たちを守る「武器」ができた
「でも、どうやって断ればいいの?友達を失いたくない…」
私が尋ねると、先輩は笑って言った。
「今は違うよ。2024年11月に『フリーランス新法』っていう法律が施行されたの。これで、私たちには法的な盾ができたんだよ」
フリーランス新法——正式名称「フリーランス・事業者間取引適正化等法」。
この法律によって、フリーランスへの業務委託には、厳格なルールが適用されるようになった。
特に重要なのは、「友達」からの依頼でも、その友達が何らかの事業をやっている場合、法律の対象になるということ。
例えば——
- カフェを経営している友人がロゴを頼む → 法律の対象
- 副業でYouTubeをやっている友人が動画編集を頼む → 法律の対象
- 個人事業主の友人がウェブサイト制作を頼む → 法律の対象
これらは全て「事業者間取引」とみなされ、以下の義務が発生する。
発注者(友人)の義務
- 取引条件の明示義務
報酬額、支払期日、納期を書面(LINEやメールでもOK)で明示しなければならない - 60日以内の支払義務
「出世払い」「店が軌道に乗ったら払う」は違法 - 買いたたきの禁止
「友達価格で安くしろ」という圧力は法律違反の可能性 - ハラスメント対策
「断ったら絶交だぞ」といった脅しはパワハラとして規制対象
つまり、「口約束でタダでやって」は、もはや違法なのだ。
LINEが「契約書」になる時代
「でも、友達に契約書なんて出したら、水臭いって言われそう…」
私の不安を見透かしたように、先輩は続けた。
「契約書じゃなくても、LINEでいいんだよ」
LINEやメールでの条件提示も、法律上「電磁的方法による明示」として認められる。
先輩は、実際に使っているテンプレートを見せてくれた。
【LINE送信テンプレート】
「〇〇ちゃん、今回のロゴ制作の件、ありがとう!認識合わせのために条件をまとめたから、これでOKなら『OK』って返信もらえるかな?
■依頼内容まとめ
制作物:カフェ店舗用ロゴデータ(AI形式・PNG形式)
提案数:2案のうち1案を選んで納品
報酬:50,000円(税別) ※友達割引適用
支払日:納品翌月末までに銀行振込
修正:2回まで無料(3回目以降は1回5,000円)
権利:著作権は譲渡、ポートフォリオには載せるね
法律(フリーランス新法)で条件を明確にすることが義務付けられたから、堅苦しくてごめんね!返信待ってる!」
「こうやって送って、『OK』の返信をもらえば、それが契約成立の証拠になる。『法律で決まってるから』って言えば、相手も納得しやすいよ」
法律を盾にする。
それは卑怯なことじゃない。
自分を守るための、正当な権利なのだ。
「断る勇気」が私を変えた
それから、私は方針を変えた。
- 料金表を作成し、SNSとウェブサイトに明記した
- 「友達価格」を廃止し、全ての案件を定価で受けることにした
- 無償依頼には、丁寧に、しかしはっきりと断るテンプレートを用意した
【断りのテンプレート】
「お声がけいただきありがとうございます。ただ、私は現在、全ての案件を有償でお受けしています。料金表は[URL]にございますので、ご確認いただき、ご検討いただけますと幸いです。もしご予算が合わない場合は、他のクリエイターをご紹介することもできますので、お気軽にお声がけください」
最初は怖かった。友人を失うのではないかと。
でも、結果は予想外だった。
本当に私を大切に思ってくれていた友人たちは、料金表を見て「ちゃんと払うよ」と言ってくれた。中には「今まで申し訳なかった」と謝ってくれた人もいた。
一方、「タダでやって」と言い続けた人たちは、自然と離れていった。
それでよかったのだと、今は思う。
なぜなら、彼らは最初から「友達」ではなかったのだから。
先輩が言っていた言葉が、今なら理解できる。
「あなたの労働を尊重しない人は、最初から友達ではない」
あの時の私に伝えたい、もっと早く知っておくべきだったこと
あれから2年。私の収入は独立当初の3倍になった。そして、心の平穏も取り戻した。
もし今、あの時の私のように悩んでいるクリエイターがいるなら、これだけは伝えたい。
1. 無償案件ほど、要求が厳しい
不思議なことに、お金を払わない人ほど「客」として振る舞う。
「これ、イメージと違う」
「もっとオシャレにして」
「明日までに直して」
一方、きちんと対価を払ってくれるクライアントは、私の提案を尊重し、納期にも余裕を持たせてくれた。
お金を払わない人ほど、私を「サービス業」として扱い、お金を払う人ほど、私を「プロフェッショナル」として尊重した。
2. 見積書で「見えない労働」を可視化する
友人に価格の妥当性を納得してもらうには、見積書が有効だ。
単に「5万円」と書くのではなく、工程を細分化する。
- ディレクション費(打ち合わせ・進行管理)
- 企画構成費(アイデア出し・調査)
- 制作費(実作業)
- 修正費(3回目以降は有料)
- 諸経費(ソフトウェア代・素材購入費)
- 著作権譲渡費
「通常はこの明細だけど、今回は『ディレクション費』の部分をサービスしてこの金額にするね」
こう説明することで、「タダで当然」という認識を「特別に安くしてもらっている」という認識へ変換できる。
3. 「お仕事の依頼について」を公開する
SNSやウェブサイトに、マイルール(ビジネスポリシー)を公開しておく。
「現在、無償でのご依頼はお断りしております」
「友人・知人からのご依頼も、トラブル防止のため正規フロー(契約書締結・前払い)でお願いしています」
「着手金として見積額の50%を前払いいただいてから作業を開始します」
これを公開しておけば、依頼が来た際に「ここに書いてある通り、このルールでやっているんだ」と伝えるだけで済む。
個人的な拒絶ではなく、業務上の規定として処理できる。
4. 関係を維持したいなら「忙しい」を理由にする
どうしても角を立てたくない相手には、こう断る。
「相談してくれてありがとう!親友の〇〇に頼ってもらえるのはプロとしてすごく嬉しいよ。ただ、今はありがたいことに他のクライアントワークが数ヶ月先まで埋まっていて、〇〇のために質の高いものを納品する時間がどうしても確保できないんだ。中途半端なものは渡したくないから、今回は見送らせてほしい」
「あなたを大切に思っているからこそ、中途半端な仕事はできない」というロジックで、拒絶を誠意に変換する。
5. フレネミーは即座に切る
もし相手が——
- 「プロならこれくらいすぐできるでしょ?」とマウントを取ってくる
- 他のクリエイターと比較して値切ってくる
- 断ったら悪評を流す
——こういう人物なら、迷わず関係を断つべきだ。
彼らは友達ではない。捕食者だ。
罪悪感を手放す——「断ること」はプロとしての誠実さ
「でも、友達を失うのが怖いんです」
その気持ち、痛いほど分かる。
私も同じだった。
でも、ある日気づいたんだ。
不当な条件で仕事を引き受けることは、もっと大きな「悪」を生む。
自分への加害——時間と労力を浪費し、精神的ストレスを抱え、本来の仕事や生活を圧迫する。
相手への不誠実——モチベーションが低い状態で取り組み、質の低い成果物を渡すことになる。
業界への背信——安価での受注実績を作ることは、市場価格を下げ、他のクリエイターの仕事を奪うことにつながる。
「断ることは、プロとして品質を保証できない仕事を受けないという誠実な行為である」
そう考えられるようになってから、罪悪感は消えた。
本当の友達なら、対価を払う
そして、もう一つ大切なことを知った。
健全な友人関係であれば、友人のプロとしての仕事をリスペクトし、対価を支払うことを当然と考える。
本当の友達は、あなたが困っているときに助けてくれる。
本当の友達は、あなたの仕事に価値を見出し、対価を払う。
本当の友達は、あなたが「NO」と言ったときに、それを尊重する。
「タダでやってくれないならもう友達じゃない」
そう言う相手は、最初から友達ではなかったのだ。
断ることで離れていく縁は、早晩トラブルを生む「悪縁」だったと割り切る。
断った後に残る友人こそが、一生付き合える真の友人だ。
あなたが自分を安売りすると、業界全体が傷つく
最後に、これだけは知っておいてほしい。
あなたが自分を安売りし続ける限り、クリエイティブ業界全体の賃金水準が下がる。
「あの人は5,000円でやってくれた」
「友達なら無料でやってくれるはず」
そういう前例を作ることは、後輩クリエイターたちの未来を奪う行為でもある。
だから、正当な対価を要求することは——
自分を守るだけでなく、
業界を守ることでもあり、
後輩を守ることでもある。
私たちには、適正価格を守る責任がある。
おわりに——「友達だから、ちゃんと対価を払おう」
あの日、泣きながらパソコンの前で「もうダメかもしれない」と思った私は、今も元気にクリエイターをやっている。
断る勇気を持ってから、失った友達もいる。
でも、本当の友達は残ってくれた。
そして何より、私は自分を取り戻した。
プロとしての誇りを。
労働への正当な評価を。
そして、心の平穏を。
もしあなたが今、同じ場所で立ち止まっているなら。
一歩、踏み出してみてほしい。
「ありがとう、でもこれは私の仕事だから、対価をいただきます」
その一言が、あなたの未来を変える。
コンビニで「友達だからタダで」とは言わない。
レストランで「友達だから無料で」とは言わない。
なのに、クリエイターには言えてしまう。
それは、クリエイティブ労働を「趣味の延長」だと軽視しているからだ。
本当に友達を大切に思うなら、ちゃんと対価を払おう。
それが、プロへの敬意であり、友情の証だ。
友達だから、タダじゃない。
友達だから、ちゃんと対価を払おう。
それが、クリエイターとして生きるための、最初の一歩だ。
そして、あなたが自分を守ることは——
この業界全体を守ることにつながっている。
法律は、あなたの味方だ。
使わない手はない。
