もう、笑えなくなっていた
転職して3ヶ月。朝、目覚ましが鳴るたびに、私の胸は重く締め付けられた。
「また、あの職場に行かなきゃいけない…」
布団から出る気力すら湧かない。スマホを見れば、前の会社の同僚がSNSで楽しそうに仕事の話をしている。あの頃は、私もあんな風に笑っていたのに。
新しい職場は、求人票に書かれていた「アットホームな雰囲気」とは正反対だった。休憩室では誰も話さない。上司は不機嫌そうに書類を叩きつけ、ミスをすれば人前で怒鳴られる。給料は確かに5万円上がった。でも、それと引き換えに失ったものが、あまりにも大きすぎた。
「なんで辞めちゃったんだろう…」
夜、ベッドに横になっても、その言葉が頭の中をぐるぐる回る。好きだった読書も、週末の散歩も、全てが色褪せて見えた。友人から遊びに誘われても「ごめん、ちょっと体調が…」と断る日々。本当は体調が悪いわけじゃない。ただ、人と会って笑顔を作る気力がなかっただけだ。
「転職は成功するもの」という幻想に縛られていた
私が転職を決めたのは、前の会社で5年働いた頃だった。
給料は平均よりやや低め。休日出勤も月に1、2回あった。でも、人間関係は良好で、上司も部下も冗談を言い合える雰囲気があった。困ったときは助け合い、成功したときは一緒に喜んでくれる。そんな職場だった。
ある日、転職サイトを何気なく見ていたら、目に留まった求人があった。
「年収50万円アップ」「完全週休二日」「残業ほぼなし」
心が揺れた。いや、正直に言えば、欲が出た。同期が次々と転職で年収を上げている話を聞いていたし、このまま今の会社にいても、昇給は年に数千円程度。「もっといい条件で働けるはず」という気持ちが、日に日に大きくなっていった。
面接は驚くほどスムーズだった。「即戦力として期待しています」と言われ、内定をもらった。その瞬間、私は「自分は選ばれた」と舞い上がっていた。
前の会社に退職を伝えたとき、上司は「本当にいいのか?」と何度も聞いてきた。同僚たちは「寂しくなるな」と言いながらも、送別会を開いてくれた。
でも私は、心のどこかで思っていた。
「みんな、置いていかれるのが怖いんだろうな。私はもっと上を目指すから」
今思えば、あの時の自分は傲慢だった。
入社初日、すべてが音を立てて崩れ落ちた
新しい職場の初日。オフィスに足を踏み入れた瞬間、違和感があった。
誰も挨拶をしない。デスクには無表情でパソコンに向かう人ばかり。案内された私の席は、窓際の狭いスペース。隣の先輩は、チラリと私を見ただけで、何も言わずに仕事に戻った。
「あの…初めまして、今日からお世話になります…」
私が声をかけると、先輩は「ああ、はい」と一言だけ返し、また画面に目を戻した。胃がキュッと縮んだ。
昼休み。前の会社では、みんなで外にランチに行ったり、休憩室で和気あいあいと過ごしていた。でもここでは、各自がデスクで黙々とコンビニ弁当を食べている。私も一人でサンドイッチを口に運んだが、味がしなかった。
仕事内容も、聞いていた話と違った。「即戦力として」と言われたのに、引き継ぎはほぼなし。「前任者の資料を見て判断して」と丸投げされ、わからないことを聞けば「それくらい自分で考えて」と冷たく言われる。
1週間後、初めてミスをした。書類の日付を間違えていたのだ。
上司に呼ばれ、会議室ではなく、フロアのみんながいる前で怒鳴られた。
「これだから中途は使えないんだよ!前の会社ではどういう教育受けてたんだ!」
周りの視線が刺さる。顔が熱くなり、涙が溢れそうになったが、必死にこらえた。
その日の帰り道、電車の中で涙が止まらなくなった。人目も気にせず、声を殺して泣いた。
「なんで私、あの会社を辞めちゃったんだろう…」
毎日が”後悔のループ”だった
それから毎日、後悔の念が頭から離れなくなった。
朝起きると「ああ、今日も行かなきゃいけない」 通勤電車では「前の会社なら、今頃あの同僚と話してるのに」 仕事中は「前ならこんな風に怒鳴られなかったのに」 帰宅後は「なんで辞めちゃったんだろう…」
休日も、気が休まらない。趣味だった読書も、ページをめくる気力がない。文字を追っていても、内容が頭に入ってこない。好きだったカフェ巡りも、一人で座っているだけで虚しくなった。
友人からの誘いも断るようになった。会えば「転職どう?」と聞かれるのが怖かったからだ。「うまくいってないんだ…」なんて、恥ずかしくて言えなかった。
SNSを開けば、前の同僚たちの楽しそうな投稿。新入社員の歓迎会、プロジェクトの成功報告、チームでの飲み会…。私がいた頃と変わらず、あの職場は温かいままだった。
「私の席、もう埋まってるんだろうな…」 「今さら戻りたいなんて、言えるわけない…」 「あんなに堂々と辞めたのに、失敗したなんて恥ずかしい…」
夜、布団の中で何度も何度も、後悔の言葉を繰り返した。眠れない夜が続き、体重も5キロ近く減った。鏡を見ると、目の下にクマができた自分の顔があった。
「こんなはずじゃなかった…」 「私の人生、終わったのかな…」
そんな風に思う日もあった。
転機は、意外なところからやってきた
転職して4ヶ月が経った頃、前の会社の先輩から突然LINEが来た。
「久しぶり!元気してる?近くまで来たから、よかったらお茶しない?」
正直、会いたくなかった。「うまくいってる?」と聞かれたら、何て答えればいいのかわからなかったからだ。
でも、断る理由を考えるのも面倒で、「いいですよ」と返信した。
カフェで先輩と向き合うと、先輩は開口一番こう言った。
「なんか、やつれてない?大丈夫?」
その一言で、堰が切れた。涙が溢れて、止まらなくなった。人前で泣くなんて、何年ぶりだろう。
「すみません…実は…」
私は、今の職場がどれだけ辛いか、毎日後悔していること、前の会社を辞めたことがどれだけ間違いだったか、全部話した。
先輩は黙って聞いてくれた。そして、私が話し終わると、こう言った。
「それ、私も経験あるよ」
え?と顔を上げると、先輩は少し苦笑いしながら続けた。
「実は私も、うちの会社に来る前に一度転職したことあるんだ。で、大失敗してね。3ヶ月で辞めた。その時は本当に死ぬほど後悔したし、自分がダメ人間に思えて、毎日泣いてた」
私は驚いた。いつも明るくて、仕事もバリバリこなしている先輩が、そんな過去を持っていたなんて。
「でもね、今思えばあの経験があったから、今の職場の良さがわかったんだと思う。それに、転職失敗したからって人生終わりじゃないよ。むしろ、そこから何を学んで、どう動くかが大事なんだ」
先輩の言葉は、優しくて、でも現実的だった。
「今の会社が本当に合わないなら、また転職すればいい。前の会社に戻りたいなら、ダメ元で相談してみてもいい。でも、もし今の会社でもう少し頑張れそうなら、せめて半年は様子を見てみたら?環境に慣れるだけで、見え方が変わることもあるから」
そして、こう続けた。
「あと、後悔ばっかりしてても何も変わらないよ。過去は変えられないけど、これからは変えられる。今、あなたにできることは何?」
その質問に、私は答えられなかった。ただ後悔して、ただ辛いと言っているだけで、何も行動していなかった自分に気づいた。
小さな一歩から、変化は始まった
先輩との会話の後、私は少しずつ考え方を変えてみることにした。
まず、「後悔しても過去は変わらない」と自分に言い聞かせた。過去の自分を責めるのではなく、「その時はそれがベストだと思ったんだ」と認めることにした。
次に、今の職場で「できること」を探した。
人間関係が冷たいなら、自分から挨拶を増やしてみよう。仕事が丸投げされるなら、質問の仕方を工夫してみよう。全てを一度に変えることはできないけど、小さな改善ならできるかもしれない。
朝、出社したら「おはようございます」と明るく言ってみた。最初は反応が薄かったが、1週間、2週間と続けるうちに、「おはよう」と返してくれる人が増えた。
仕事でわからないことがあったとき、「すみません、これについて教えていただけますか?」ではなく、「これについて、こう理解したのですが、合っていますか?」と聞き方を変えてみた。すると、「ああ、そうだね。ただここはこうした方がいいかも」と、少し丁寧に教えてくれるようになった。
それでも、辛い日はあった。上司に理不尽に怒られた日は、帰りの電車で涙が出た。でも、前のように「なんで辞めちゃったんだろう」と後悔するのではなく、「今日は辛かったけど、明日はどうすればいいか考えよう」と思うようにした。
そして、半年が経った頃。
ある日、隣の席の先輩が「最近、ちゃんと仕事できるようになったね」と言ってくれた。お世辞かもしれないけど、その一言が嬉しかった。
職場の雰囲気は相変わらず冷たいし、前の会社ほど居心地が良いわけではない。でも、「絶対に無理」と思っていた状況が、少しずつ「なんとかやれる」に変わっていた。
あの時の私に、今なら言える
転職して1年が経った今、私はまだこの会社にいる。
正直に言えば、前の会社の方が良かったと、今でも思う時はある。でも、あの時の「毎日が地獄」という感覚は、もうない。
先輩が言っていた「環境に慣れるだけで見え方が変わる」は、本当だった。最初は冷たいと思っていた同僚も、実は人見知りなだけだとわかった。上司の怒り方も、仕事に対する真剣さの裏返しだと理解できるようになった。
それに、この1年で学んだこともたくさんある。
自分から動かないと何も変わらないこと。環境のせいにしているだけでは前に進めないこと。でも、本当に無理な時は逃げてもいいということ。
もし、あの時の後悔に苦しんでいた自分に会えるなら、こう言いたい。
「大丈夫。今は辛くて、毎日後悔して、前の会社に戻りたいって泣いてるけど、その感情は永遠には続かないから。少しずつ、前を向けるようになるから」
転職して後悔している人へ。
あなたの気持ち、痛いほどわかります。毎日が辛くて、趣味も楽しめなくて、ただ後悔の言葉が頭の中をぐるぐる回る日々。本当に苦しいですよね。
でも、そこで立ち止まってしまわないでください。
今の会社で何ができるか、考えてみてください。小さなことでいいんです。挨拶を増やす、質問の仕方を変える、ランチに誘ってみる。そんな小さな一歩が、状況を変えるきっかけになるかもしれません。
それでも本当に無理なら、転職し直してもいい。前の会社に相談してもいい。人生は、一度の選択で全てが決まるわけじゃない。
大切なのは、後悔の中で立ち止まるのではなく、「今、自分にできること」を見つけて、一歩ずつ前に進むこと。
あなたの人生は、まだ終わっていません。 今日からでも、変えられます。
一緒に、前を向きましょう。
